JA新ふくしま・紺野茂美氏との交流会


 「土壌スクリーニング・プロジェクト」は、チェルノブイリと福島の事故以降総動員された頭脳、知見に、甚大な苦労と必然的な偶然が加わって始動しました。
 人類初体験の状況下、プロジェクトに関わっている人々は当然「こんなことはかつてなかった」と口を揃えます。そして、福島県生協連の事務局に対し、JA新ふくしまの担当として最も近く、その渦中、最前線で対応してくださっているのが、紺野茂美さんです。
 時は少し遡って、11月27日の夜。
 コープしがから神門さんと、最後には遅れて参加された生協総研・林さんも加わって、プロジェクト始動までの苦労、そして時には生協創始の核心まで触れる、濃い夜の報告です。

事務局 JAに勤めてどれくらいになりますか?
紺野 長いよ。もう35年だね。
事務局 土壌スクリーニング・プロジェクトは、JA新ふくしま菅野専務の英断を経て始動したと聞いています。そこから、どういう経緯で紺野さんが担当に着任されたんですか?
紺野 ウチは明確な担当はないの。こういう、「前例のないことに対応する」というと「誰にやらそうか」って、できるのは機動性のあるやつってことで「いいっすよ、オレ」って(笑)。そこからのことは話せば長いんだけど、まず「最初は放射能の勉強から」ってことで、去年の7月、東大で放射能の説明会に行って。それで8月になると福島県が「簡易土壌測定方法」を開発し福島県中央会からサーベーメーターをもらったんで、オレともう一人で簡易の測定をはじめるんだけど、それがえらい作業。毎日がほとんど土方作業で、土堀りだから、そのうちやり過ぎで腱鞘炎になっちゃって、「これじゃダメだ」と。色々試しながら、その頃ちょうど菅野専務がウクライナ、ベラルーシに行って、現地の機械を見てきて「これがいいから」ってことで今使ってるあの機械(AT6101DR)を初めて見たのが今年の1月。現地から、あれをつくってるアトムテックス社の人間も来て、測定して、最初にセシウム134が出てるのを見て「なんだここは!?」って驚いて(笑)。彼らはだって、今やチェルノブイリを知らない世代が開発者をやってるの。あとは農地の汚染土をひっくり返してるのを見て、またビックリして。
事務局 「なんでそんなことするの?」と。
紺野 向こうは国が社会主義なことと、いくらでも他に広大な大地があるということで、強制的に移住させられたのね。とにかくそうやって、彼らが1月に来日して、新たに機械が4月10日に届いた。そこから今度は、「これは平米とかキロとか、日本の基準じゃないとダメだよ」ってことでさらに2週間かかって。彼らも毎回日本に来て、一緒に現場に行って、何度も繰り返し測定して、土も持って行って分析して、またそのデータを本国に送って、それでさらに調整して、やっと今の機械と設定に至るわけ。
神門 JA新ふくしまさんの管内というのは、福島市とあとは?
紺野 福島市と川俣町ね。
神門 これをその福島市と川俣町以外のところには広げないんですか?
紺野 それは当然ですが、農協でも放射能汚染に関して温度差があるのは事実ですぐにといかない。

普段と違う今回のお店は、市内沖縄料理の名店ぱいなっぷるはうす

事務局 これまでJAと生協が、ここまで連携してやったプロジェクトというのはあるんですか?
紺野 こんなの初めてだよ。そこにはね、協同組合の基本的意味合いがあるの。だから、できる。
神門 今年は国際協同組合年でもあるから。
紺野 それもね、勤め始めた最初は協同組合性ということで燃えるんだけど、やっていくうちにだんだんと「ドロドロしてんな、ここは」って(笑)。最初なんか全然知らなくて、協同組合のことを初めて知って「これは素晴らしい」と思って、途中から「おいおい、ウチの組織はそうなってねぇぞ」って(笑)。
事務局 それは、例えば賀川豊彦氏がそういった精神性のルーツという理解で間違いないでしょうか?
神門 あの方は農民運動もやったし、労働組合の運動とか、生協運動もやりはった方だから。
紺野 福島の場合は、もともと自由民権運動があり、この辺にもいっぱい農民組合があって。それこそ元福島県連会長の関誠一さんなんかはオレの爺さんと一緒に仕事もしていて、その関さんが生協をつくったんです。
神門 賀川豊彦さんが生協運動の親と言われるのは、生協っていうのは、それこそ20年前ぐらい前までは神戸を中心に動いてたから、賀川さんが神戸出身というのがあると思います。だから僕等関西の人間にしたら、「生協運動の生みの親は誰や」って話になれば、それは「コープこうべをつくった人」となる。でもそれは、それぞれ九州には九州、例えば京都生協には横内さんという素晴らしい人がいたし、他にも山陰、毛利や、関西ならそれこそ豊臣なんかの意志を引き継いだ色んな人がいて、それが明治以降も引き継がれた。でも福島には会津がある。会津っていうのは、江戸時代から革新的な土地でね。すごく気高いというか、そういうのがあるから、そこには色々な運動もあっただろうしね。
紺野 コープこうべなんて30年前とかなら最たるもので、「デパートよりすごい」って聞いていて。その福島の関誠一さんはクリスチャンで、当然戦前はしょっちゅう憲兵に連れて行かれて、1週間経つと出てきて、また連れて行かれてって繰り返しだった。クリスチャンで社会主義唱えてっから思想犯で、常に特攻に狙われて。それをウチの爺さんは見てたから「あれはすごいぞ」って(笑)。だから古い人たちに聞くと、「関さんが教会を改築して最初につくった福島市内、新町の消費組合は、クリスチャンの人達が一生懸命買って支えたんだよ」って。
神門 まあでも、僕が最初に入ったのは京都生協なんですが、それが約30年前。その時はやっぱり、農協さんとのお付き合いはそんなに親しくはなかったように思います。でも、ここ20年くらいで農協さんと事業もしっかりやるようになってきて。特に今JAしがなんてね、離せへん(笑)。米が入らなくなるから。
紺野 オレはもともと担当が米なんで、販売と指導やってきた。もともと従来型っていうのが一番嫌いなタイプ。新しいシステムをつくることが大好きなの。だからここ数年も、「今に即したものをつくり上げる」っていうことをやってきてそれが軌道に乗って、それも震災でガチャガチャになっちゃったんだけど。それで今もね、ウチの管内の米の作付け制限がかかってる地域の集会で、農水省の穀物課長という人が2回来て、会っています。その人がまさに、作付け制限を解除して出荷できるかどうかを決める人なのね。まあ、東大の農学部卒でキャリアのトップの、すごい人なわけですよ。でもオレはそういう修羅場の集会でもね、当然少なからず攻撃もされますけど、足をすくわれるような攻撃はされない。なんでかと言うと、指導会とかで一貫して、農家さんたちに「この方法でいこうね」ってに言ってきたんです。ことあるごとに、「皆さんのやりかたもありますが、こうした方法もあるのですよ」って。当然反論もありますが、それも目線を同じくしてやり合うの。そうやってやり合うから、それは自分の上司や経営者からは毛嫌いされることもままありますが、震災が起きて自分の生きる道が開かれた感じ。今まではやりたかったことが震災で具体的になった。今回小山先生と繋がったりしながら、普通だったらやらないこの作業を、自分は「これは絶対必要だな」と思ってやってるんです。そうしたら、たまたまその結果として、自分が今まで思ってきたことができるようになって、「オーシッ」って。まあ、おかげで書かなきゃいけない報告書もすごいいっぱいあるんですが(笑)。
事務局 このプロジェクトに、今までならまず動かせなかった行政を動かす突破口にもなりうる可能性を感じておられると。
紺野 そう、もう「ネタをみとけよ」って(笑)。でもそれで商売で売るとかそういうことじゃなくて、こういうことをやらないと協同組合もダメだし、農民もダメだし、もっと根本的な「食料どうすんの?」っていうことをやりたいの。オレは、そこ。だから別にTPPに入ったっていいよ。ただ、じゃあ、そこに入れた人たち、「あんたたちの食いモン誰がつくるのよ?」って。
事務局 小山先生の主導のもと、これだけ先鋭的な取組みが農業の現場で実際に始まっていることに、大きな可能性を感じます。
紺野 小山ちゃんは、彼は最初に福島に来た時から比べても、震災の後に目の色が変わったんだよ。はっきり「こうだ!」って言いだしたの。去年の5月頃にあった研究集会でね、話聞いてて「小山ちゃん、何それ?」って。それで「これだよ!」って説明されて、オレも、まさにピンポイントで「それだ!」って意気投合したんだよね。

やけに時間が経つのが早かった、この日の夜。途中おおいに脱線もしながら、最後はやはり意気投合したのでした

12/20/2012
事務局